
文章中、司…司会者、●…参加者 |

苅藻通、浜添通、東尻池町といった地名から構成される真野のまちは長田区の南東部に位置する地域で、まちの西端には新湊川(苅藻川)が流れ、東端では兵庫運河で兵庫区と接しています。
まちの南には兵庫運河を開削した土で作られたといわれる苅藻島があり、島には各種工業が立地し、島の東端は貯木場となっています。
地区内には地下鉄海岸線苅藻駅があり、まちを歩くと真野地区に本社を構える三ツ星ベルトの大きな看板が目に飛び込んできます。
そして地下鉄駅の南には市民に食肉を供給する流通拠点である、中央卸売市場西部市場が建っています。
真野地区はまた、まちづくりに先駆的に取り組んできた地区として全国的にも有名で、小学校の社会科の教科書(教育出版)にも登場します。
司)地区内には三ツ星ベルトをはじめ、台糖、鉄工所など工場がたくさんありますが、昔はどうでしたか。
●昔はマッチ工場が多かったですね。昔三ツ星ベルトは三ツ星調帯といっていましたが、今工場敷地になっているところにも、昔マッチ工場があって、敷地内でマッチの軸を乾燥させてました。現在の西神戸朝鮮初中級学校も以前はマッチ工場でした。マッチの材料となる材木置き場もたくさんありました。
●まち中では工場が次々と入れ替わっていきました。浜添通3丁目には川村産業(カワムラサイクルの前身)もありましたし、ミヨシ油脂の石鹸工場、そして染物工場や、鉄工所も多かったですね。
●それからゴム工場も次々とできました。
●昔のマッチ工場やゴム工場は本当によく火災を起こしていましたね。
●私は戦後すぐ、浜添5丁目で消防団を結成しましたが、年間80数回と頻繁に火事で出動していました。それだけ火事が多かったんです。
●ほとんどの工場が焼けてしまったためにやめていったんです。
司)火事や産業構造の転換などで工場が入れ替わっていったんですね。昔のまちの様子をもう少しおしえてください。
●昔は船と市電の関係で橋にも色々な工夫がされていました。高松橋(兵庫区との区境、兵庫運河に架かる橋)は跳ね橋で、苅藻橋(苅藻島と真野のまちを結ぶ橋)は回転橋でくるっと回っていたんです。
●東尻池4丁目では、今喫茶店があるところですが、昔、林田区(現長田区)の郵便局本局がありました。また道向い東側には県の財務事務所が建っていました。また真野小学校も東尻池交差点(東尻池3丁目)の南西角にあったんです。
司)浜で遊んだりということもあったんですか。
●昔の海岸は砂浜で、海で泳いだり、河口でしじみを取ったりしていましたね。
吉田新田(現在の兵庫区吉田町)のあたりで、かにを採ったりもしました。
●戦前、苅藻島では囲いをして、牛を放牧したりしてました。牛に追いかけられたこともあったんですよ。
●苅藻島には戦時中、高射砲がありましたね。
●まあ今と違い、昔の真野は田や池が多かったですね。

司)真野では昭和30・40年代には公害問題でいろいろ苦労され、その中でまちづくりの先進的な取り組みがスタートしたという話ですが。
●確かに真野のまちづくりは公害がきっかけになっています。昭和35・36年頃には工場の廃液で川の水質が悪くなったり、大気汚染で小児ぜんそくにかかった子が出るなど環境問題が深刻になり、これに取り組む住民運動がスタートしました。最初は高松橋、苅藻橋、駒栄橋の水質調査からのスタートです。環境問題をはじめ、地域の課題に住民が主体的に取り組んでいったわけですが、最初のうちは自分たちがまちづくりに取り組んでいるといった意識ではなかったかもしれません。
●まちづくりの活動の中で、行政と話し合う窓口を作らないといけないと、まちづくりの組織を作り、陳情活動をしたりするうち、市と一緒になってまちづくりに取り組み始め、そういった活動の中で一部工場が転出して、跡地に公園ができていきました。
●そして昭和50年に入ると花壇づくりからでしたが、本格的なまちづくりがはじまりました。

司)まちのコミュニティについてはどうでしょうか。
●この地域は、昔は長田神社の氏子会エリアの14カ町の自治会が尻池南部地区自治連合会をつくって、祭りの神輿かきなどを共同で行なっていましたが、昭和33年の暮れにふとしたことから解散することになり、翌年に自治連合会が2つに分かれて新しく発足し現在まで続いています。しかし、幸いなことにその後、真野のまちづくりを考える中で、2つの自治連合会の壁を越えて、若手有志による真野同志会、そして真野地区まちづくり推進会が組織され、活動することになりましたので、住民の方々も自治会を意識することなく、それぞれの団体が企画する行事に参加し楽しんでいます。
●真野では花まつり、寒もちつき、盆踊り、地域での公園をめぐるラリーなど、ふれあい行事は毎年恒例で行われています。
●そしてやはり、子供たちにとっての楽しみといえば、地蔵盆ですね。震災後少なくなってはいますが、昔から8月23日の夜は大変なにぎわいで、大人は毎年その準備で大変でした。
●私は昭和35年に浜添通5・6・7・8丁目、苅藻島で子供会をつくったんですが、当時62・3人いました。子供たちを鉢伏山につれていったり。でも今は同じ地域で小学校1年生から中学校3年生までの子供がいないんですよ。
●真野小学校の1年生も17人で、本当に子供が少なくなってしまいました。

司)平成12年11月に三ツ星ベルトの本社が復帰し、また平成13年7月には地下鉄海岸線も開通しましたが現在のまちはどうですか。
●地下鉄ができて便利になりましたが、皮肉なことに、昔、良好なまちを目指してつくったまちづくりのルール(地区計画等)が現状にあわず、住宅等が建てれず駐車場ばかりになるなど、まちの活気を削ぐ要因にもなっています。計画の見直しが必要な時期にきています。
●このまちに魅力があれば、人が集まるのでしょうが―何か魅力になるものをつくらなければならないと思います。
●真野地区の環境は随分よくなりましたが、人が戻っていないことが残念です。より魅力あるまちになり、若い人が戻ってこれるまちにしていかなくてはと思います。昔のように何世代も住めるようなまちになってほしいですね。

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炭谷 吾一
木ノ下傳三郎
清水 喜代司
村瀬 敏明
横山 博一
横野 光子
浜貝 久雄
(順不同・敬称略) |

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