文章中、司…司会者●…参加者

第1回 駒ヶ林
2000年12月14日開催
駒ヶ林会館




JR新長田駅から南に約10分ほど歩くと、駒ヶ林のまちにたどり着きます。
 駒ケ林は、長田区の南に位置し、源平合戦由来の腕塚さんや、今はもう行われていませんが、伝統的な行事である左義長、そして漁港など、独自の風俗や歴史を持つまちです。そんな駒ケ林に育った人たちは自分たちのまちをー「はやし」と呼びます。



●「はやしの中で1月15日に左義長、5月15日に八幡さんのまつりがあって、11月7日にみなとまつりがあり、屋台が出てました。これが元々駒ケ林のまつりの基本です。」
●「今は女の人でも太鼓を叩きますが、昔は男社会だったので、女の子は踊りで、男の子が小太鼓を叩いていました。」
●「みなとまつりでは屋台がでていましたが、駒ケ林では1丁目から6丁目までそれぞれに屋台小屋があり、昼は男の人がおみこしさんをかついで、晩になったら男の子たちが歌をうたいながら屋台を引っ張るんですよ。」
●「きれいに電飾して、男が乗って、太鼓をたたくんです。」


司「みなとまつりというのは今の神戸まつりのことですよね。」
●「そのときに各まちで競い合って六間道を練り歩くんですよ。」
●「それで景品(花)をくれるんですが、渋って出さないところには、みこしで突っつきにいきました。昔はまつりだからそれで店をこわされても仕方なかったんです。」
●「その時代に青年団があって子供におしえてましたよ。」
●「みんなの職業がかわっていく中でそういったものがなくなっていきました。」






司「駒ケ林の人の、職業っていえば、なんだったんですか。」
●「農家もありましたが、多くは 漁師か魚売りか加工するかです。」
●「魚を売る人は缶に入れて京都 まで売りにいっていました。
 駒ケ林の魚といったらトレト レで、神戸で一番でした。
 でも冬場は、魚が沖のほうても遊び月というのが1、2ヶ月あって、漁師を遊ばせておいてはいかんということで左義長ができたという話を聞いたことがあります。
 おまつりとしては、左義長は漁師のまつりで、あとお宮さんとみなとまつは地域のまつりですね。」


司「左義長で漁師の漁業権を争ったという話はないんですか。」
●「それはほんとに大昔の話です。」
●「昔は地引網が多くて大体40人ほどの網元がおり、魚が捕れる場所が限られているので1番網、2番網というように順番を決めるため、左義長で争ったという話もあります。」
●「左義長に出れるのは、漁師と魚屋だけで、同じ駒ケ林でもほかの職業についている人は出してもらえません。」
●「とにかく、昭和34年に浜が埋め立てられ、左義長が無くなったころから時代が変わっていきました。」
●「会社勤めの人も住むようになり、駒ケ林の純然たる風習も徐々に無くなっていくということなんでしょうね。」



司「ということは分岐点は昭和34年ごろの埋め立てということですね。このころは神武景気で社会情勢も変わってきていますよね。」
●「駒ケ林の風土とか人ということでいえば、人情が厚いというか、お互いが助け合いの独特のものだと思います。
 細い路地が多く、その昭和34年ごろまでは近所で味噌が足りなかったらちょっと借りにいくというのはあったんですよ。」
●「お金がなくても、隣近所で助け合って、毎日食べるのに苦労しなくて済みましたね。」
●「ここ15、6年前までは家にカギをかけなかったですよ。よその人がうろつくとすぐわかるので、どろぼうもまちに、はいれなかった。」




 毎年1月15日、駒ケ林では「サギッチョ」とか「トンド」と呼ばれる行事が行われた。この行事は3基の「お山」で倒しあいの勝負をするものである。
 「お山」とは丸太の木材を組んでかつぎ棒とし、その上にササやワラ、サカキなどで飾った青竹を立てたもので、全盛期には高さ10メートルもあった。3基のうち一騎は行司役で、他の2基は東の村と西の村に分かれて村の漁師が100人ほどでかついだ。
 この二基が浜辺で倒し合いを争うのであり、勝った方の村はその年、網入れの優先権をもつことになるので、争いは壮絶をきわめ、ときには血を見ることもあった。このため、「駒ヶ林のけんか祭り」とも言われていた。
 村の東と西に分かれて争うので、この時には、いくら仲の良い夫婦でもお互いの出身が東西に分かれる場合は、嫁は一時的に実家に帰されたという。
 この行事を見学するため、当日は各地から非常な人出で浜辺はうずまった。しかし、浜が次第に埋め立てられ、する場所がなくなり、昭和34年を最後に中止することになった。
「ながたの民話」より





 駒ケ林の漁港は今でも、神戸市内で1、2を争う漁獲量を有していますが、昔から由緒ある港でした――
●「昭和のはじめころから日本 各地に一箇所ずつ中央卸売市 場をつくるということで、神 戸には昭和7年にできました。けれども神戸の地勢は東西に 細長いので、最終的に脇の浜 に東部配給所ができ、駒ケ林 に西部配給所ができたんですよ。それで記録にはないので すが、須磨離宮公園に皇族が来られたときには、駒ケ林から魚を献上してい たため、駒ケ林の魚市場には宮内庁御用達という看板があったんですよ。そ の当時、神戸市内には魚市場が7箇所ほどありましたが、鮮度が高いと言う ことで、西部配給所として駒ケ林が残ったんですよ。」
●「そのころ私の記憶にある魚市場はものすごい賑やかさでした。」





●「やっぱり駒ケ林といえば八尾善四郎さんでしょうね。高松橋(長田区東尻池新町、兵庫区と長田区の境)に銅像もありますし。」
●「八尾さんは、船頭から身を起こして四国鳴門の貿易をして富を築いて大地主になったらしいです。」


司「廻船問屋をして富を築いて大地主になったんですね。」
●「神戸の歴史の中で、民間人が行った明治時代の大きな土木事業といえば湊川の付替えと兵庫運河の開削ですね。先人の神田さん(神田兵右衛門)がスタートさせた、運河の掘削(新川運河)が兵庫運河株式会社により引き継がれた。この事業を八尾さんが明治28年から31年の間に行ったが、ちょうど明治28年が日清戦争の時期で、土地の値段が高騰し、事業担当者がみんな脱落しかけ、また運河を掘ると地下水が来なくなり農業が出来なくなるということで、地主の反対もあったが、八尾さんが走り回り完成したということです。兵庫運河を掘った土で苅藻島を造ったんですよ。」
●「それも八尾さんの発案です。」
●「戦争中に兵庫能福寺の大仏が軍に金属供出されましたが(能福寺の大仏は、平成3年に再建されている)、八尾さんの銅像だけ残りました。やはり地元の人が八尾さんの重みを感じていたんでしょうね。」
●「八尾さんのことは「海鳴りやまず」(神戸新聞社編)という本に書いていますよ。」





●「明治12年に生まれ、明石で魚市場を共同経営していました。後に、兵庫県漁業組合会長や駒ケ林組合の会長になりました。」


●「大地主で自分の土地を歩くだけで新長田までいけたといいます。この人の供出した土地で六間道ができたといいます。」


●「川村さんは駒ヶ林の出身で昭和23年頃まで共同経営した会社がたちゆかなくなり、真野地区の浜添通3丁目(現真野ふれあい住宅)で会社をやり始めたんですよ。最終的には川村サイクルという名前に変えましたけど、若い社員がいろんなものを考え出せるよう、川村産業という名前を付けたということです。一番盛況だったのは昭和35、6年から40年頃で、海に面した駒ケ林での経験からさびに強くするため、自転車のフレームを亜鉛メッキで仕上げ、亜鉛メッキだけでは塗料が乗らないのでクローム液に浸し塗装してました。」



俳優の沢田清さん
 (無声映画時代の俳優、駒林神社内の玉垣に名前が刻まれている。)


 駒ケ林には古くから独特の方言がある。「こわれる」を「めがれる」、「うどん」を「うろん」などラ行がよく使われた。
 またこの地域には京風なまりがあるといわれた。その理由は以前、駒ケ林の女性は乳母として宮仕えをしたためだとか平家の落人が住み着いたためだとかいわれていた。
「ながたの民話」より


駒ケ林1丁目―東之町(ひがっしょ)
駒ケ林2丁目―出在所(でざいしょ)
駒ケ林3丁目―井戸之町(いどんちょ)
駒ケ林4丁目―仲之町(なかんじょ)
駒ケ林5丁目―堂之町(どのちょう)
駒ケ林6丁目―西之町(にしんじょ)


中本 正
尻池誠一
中島忠夫
貝塚元良
来田昭子
北村美代子
(順不同・敬称略)











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